1996年11月19日 神戸新聞    16/16         


阿藤久子コンサート
際立つバランス

哀哭(こく)の旋律を間近に予感させなが
らギターがゆっくりと立ち上がった時、そ
のハンサムなダンサーはステージの中央
へ進み出るのを一瞬ためらったようであ
った。錯覚であったかもしれない。だが、
やがて数分の時が流れ、曲がクライマッ
クスへ急上昇を始めた時、さっきの彼の
ためらいは確かに見えた通りにあったの
だと、確信せずにいられなくなっていた。
なぜなら、彼は今や地獄の中で踊ってい
たのだ。ステップを踏む足が、振動を支え
る脊椎(せきつい)が、安定と破滅とをかろ
うじて支えつづける腰骨が、肉体の限界を
超えていた。死の舞踏はそしてまだまだ続
くのだ。そこが地獄と知りながら、飛び込
むのに躊躇しない者はない。
阿藤久子フラメンコ舞踊コンサート(9日、
新神戸オリエンタル劇場)にスペインか
招かれたホアキン・ルイスの踊りであった。


 さっき、阿藤と一緒に踊ったタンゴでは、この
うえなくダンディーな男であった。女の前に立つ
時には、こういう微妙な距離を取ってこそ美しい。
女の体に触れる時、手はまずピアニッシモでなく
てはならない。女の腕を取る時には、指は妖精
の物語を語っていなければならないのだ・・・。
その優雅さ。その繊細さ。その気品・・・。恋の要諦(てい)を彼ほど心得ている男は、ほかにい
ないように思えたものだ。だがいま、彼は孤独
であった。見えないパートナーとなって彼の前に
立っているのは、情熱的な女ではない。情熱を
言うならば、そこにいるのは女よりももっと情熱
的な死に神である。
 男を最も美しい姿へと駆り立てて、その最高の
一瞬を襲おうと、入念に身構えている死に神なの
である。なんと、闘牛に似ていることか。
 ところで、その場の女主人であった阿藤は、マ
ドリードから来たゲストのこの凄(せい)絶な決闘
をどんなふうに見たのであろうか。
むしろ彼女一人がその場からはみ出して、よそ
ごとを考えているような、ぼやんとした顔であ
った。だがそれは多分、舞台の「命」をまざまざ
と見たがゆえの、ぼう然自失だったのだ。それは
彼女がセギリージャスに向かって立った時、一
瞬にして理解された。
 それほどまでに感情をこまやかに表現した
阿藤久子を見たことがない(日本の心だ!)。
闘いに疲れた男をわが胸に迎えようと、無上の
優しさに満ちていた。そんなにステップのくるぶし
がきれいに光る阿藤久子を見たことがない。男へ
集中することで、彼女の肉体からきょう雑な意
識が消えていた。そんなにバランスの美しい阿藤
久子を見たことがない。彼女はついに宇宙のリ
ズムで踊っていた。
 マドリードから来た男はこの日、彼の命がけの
ダンスによって、神戸に一人のすばらしい女性
舞踊家を誕生させた。     (山)